安閑天皇の宮跡

安閑天皇の宮跡

藤原京の大極殿跡を西に真直ぐ通る道がある。八木町から曽我町を通り曲川町から高田市に入り尺度から長尾に至る。これが竹内峠を越え河内から浪速に至る。これを横大路といい、藤原京の頃の国道一号線であり、有史以来大和と浪速を結ぶ大道であった。現在は車一台しか通れないような細い道で、国道24号や南阪奈道が出来た結果、ローカル道になってしまった。この曲川町金橋に金橋神社がある。横大路からさらに100米ほど奥まった所で殆ど人通りもなく、集落の人しか通らない。この神社の中にひっそりと碑が立っており、見ると”安閑天皇勾金橋宮跡”と書かれており、橿原教育委員会が建立したものである。現在JR桜井線高田駅の次ぎに金橋という無人駅があり、古くからある地名だったようだ。私の家から数百米しか離れていない所で犬の散歩途中に発見したのだが、そうでなければ全く関心がないし、安閑天皇自身歴史上、それほど有名ではなく話題にもあがらなかったろう。ある日、例によって犬の散歩途中、神社の隣りに住む学校の先生にお会いした。前から気になっていたので、天皇の宮跡というかぎり何か言い伝えか伝説があるのかと聞いた。神社の隣りに住んでいながら良く判らないという。ただ、近所の人は蔵王権現さんといって親しみ、年一度のお祭りがあり、近くの畝火山口神社の神主がきて、権現さん祭りをおこなうとのことであった。境内の案内板により安閑天皇の事跡を紹介する。

      金橋神社の鳥居

      宮跡の碑 ”安閑天皇勾金橋宮跡”と書かれている

安閑天皇(西暦四六六生~五三五死)は継体天皇の第一皇子で勾大兄廣國押武金日天皇の名で親しまれ西暦五三四年春正月に第二十七代天皇として勾金橋宮で即位された。都を大和國磐余の玉穂宮(継体天皇宮殿)から勾金橋の地(橿原市曲川町)に遷されたのは今から千四百五十年前のことで寛大にして仁恵の心深い天皇は此の地で善政を敷かれた。この由緒ある勾金橋宮に安閑天皇の遺徳を偲びその神霊を祀って創建されたのが権現社である。権現社建立時期は定かではないが明治維新に金橋神社と改稱され人里に接した社地は竹林と生垣で隔てられ社殿の周囲には古木が聳え立ち千古の霊蹟を今日に伝えている
大正四年十一月に奈良県教育委員会より建設された安閑天皇勾金橋宮跡の記念碑も境内に保存されている 平成元年十一月十二日 橿原市曲川町

第26代 継体天皇(450?~531)(皇后)手白香皇女 (妃)尾張目子媛
第27代 安閑天皇(466~535)(母)尾張目小媛 (皇后)春日山田皇女
第28代 宣化天皇(467~539)(母)尾張目小媛 (皇后)橘仲皇女
第29代 欽明天皇(509~571)(母)手白香皇女

日本書紀によれば上が天皇の経緯である。継体以降その死後次々と皇位を継ぎ第30代敏達天皇に引き継いでゆく。在位期間は数年で短いが順調に交代したように見える。しかし継体天皇とそれに続く安閑・宣化・欽明の四代の天皇の即位と崩年に
関する記述には矛盾が多く、その背後には複雑な政治情勢が秘められていたと思われる。継体天皇は応神天皇5世の孫として即位する前(妃)尾張目子媛の間に安閑、宣化の二人の子を従えて第26代天皇に即位した。即位後手白香皇女を娶り皇后とし尾張目子媛は妃となった。応神5世の孫とはいえ尾張目子媛を妃にしたのは血統上の問題を事前におさえておく狙いがあったのであろう。531年継体が崩御するや卑女の生まれの安閑を嫌い、正統な皇女の子を皇位につけることを画策する蘇我稲目らと安閑をかつぎだす大伴、巨勢氏らが対立し争いが起こった。これを「辛亥の変」といわれ、安閑、宣化と欽明の二朝対立の構図である。
日本書紀には継体天皇の崩御年の資料として「百済本記」の中の記述を示しているが、これには天皇と皇太子そして皇子が共に亡くたったと書かれている。これが事実とすると「継体天皇」が亡くなられた時に安閑、宣化も亡くなったことになり、日本書紀が二説を残し事実の解明を後世にのこした。
さらに伝説として安閑は二朝対立の結果、吉野に退却の後、尾張に逃れ尾張目小媛の生地名古屋に兵を求めたが結果欽名に破れ蔵王権現になったと云うのである。

吉野は悲運の地である。『花書よりも史書に悲しき吉野山』といわれる。時の権力者に反逆し、危機が迫ると吉野に走った。吉野は地形学的に反逆者にとって難攻不落の自然の堅城である。背後は奥深い山地であり左右は絶壁の高台で地上から攻め来る敵が丸見えとなる。前方が唯一の道であるが馬の背の尾根となり、容易に封鎖できる。さらに、一朝事があれば一日で都に到着可能である。役の行者が時の権力に抗し釈迦、弥勒などでは衆生を度し難いとして、吉野で湧現させたのが蔵王権現で、憤怒の形相を持つ日本独自の佛尊を興隆した。天武天皇は近江朝に反抗し吉野に逃れた後、伊勢、尾張から反撃せ皇位を奪い返した。
源義経は頼朝に追われ吉野から奥州にのがれ、南北朝では後醍醐天皇が足利尊氏に坑し二朝対立した。役の行者は706年没で安閑天皇はそれより150年も前の出来事で元祖吉野悲劇とも言うべき人物であったということになる。安閑天皇の事跡が史実かどうかわからないがもし事実なら新しい発見である。

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太子道

太子道

 奈良県の地形を見ると二つの特徴がある。図に見るように大和川を魚の背骨にして支流となる川が子骨のように北から南からながれこんでいる。盆地の川はこれ一本である。もう一つは盆地の標高で一番低いところは大和川が大阪に流れ込むところで約30m、一番高い盆地部は約100m、全体として大和川の南の支流は北西に,北の支流は南西に流れている。飛鳥時代以前の南北の道はおそらく川に沿って通っていたとおもわれる。なぜなら川を渉るのは大変難儀なことだからである。奈良時代になって条理制をとり東西に横大路、縦に下つ道、中つ道、上つ道の3本が官道として開通され南北交通はこの道を利用することになるが、これ以外の道はこのまま残ったとおもわれる。また、田んぼであるが,必要な水は主として川の水をひくことになるが、川に沿った田んぼは川に平行となる。灌漑用水も田の方向に沿うことになる。従って必然的に奈良県の道も北から西へ20°傾いた地形となる。太子道といわれる今回主題の道も飛鳥川と寺川の間を巧みに縫って通っている。

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奈良盆地の河川の状態

 さて聖徳太子の斑鳩の宮が完成したのが601年、小懇田(おはりた)の宮に移ったのが603年、太子の亡くなったのが622年である。従ってもし大子が太子道を通って毎日通ったとして20年間である。更に小懇田が定説とおり豊浦(とゆら)の近辺もしくは雷岡(いかずちのおか)東方どちらでも17km、もし桜井(大福)の三十八柱神社(みそやはしらじんじゃ)の近辺と考えたら12kmである。説話によれば斑鳩寺を建てるのに飛鳥から矢を吹き、落ちた所が屋就神社(やつぎじんじゃ)で、これでは近すぎるというのでそこから第二の矢を吹いた。するとそこは屏風(びょうぶ)近くの杵築(きつき)神社内に落ち、更に三の矢をついだ。そこで落ちたのが斑鳩であったので其処を斑鳩寺の場所に決めたというのだ。それはともかく太子道はこの3区画で説明する。

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    太子道(筋違道)

(http://sanzan.gozaru.jp/kodou/taisimiti/taisi1/taisi1.html  の図を拝借)

 飛鳥、屋就間では太子道の面影は殆ど無い。ただこの飛鳥桜井橿原地帯は太子の伝承が多く、古道も多い為5,6通りが用意されている。伝説とおり屋就街道は太子道であろうといわれている。屋就神社近くに多(おお)神社があり春分、秋分の頃は東に三輪山から太陽があがり、西に二上山へ陽が沈む所である。
 最も太子道の面影を残しているのは屋就屏風間である。この間、黒田、伴道、屏風の3キロの間はその痕跡をよく残している。太子腰掛の石や太子接待の絵馬がある杵築神社は太子昼食時、屏風をたてて風を防いだということが「太子伝私記」に記されているという。太子道から少し離れるが、額安寺がある。ここは太子が自分の太子達の教育のため、インドの祇園精舎をまねて学問所を作ったのが始まりで、太子が晩年病気になったのを推古天皇の名代として見舞いに来た田村皇子(後、舒明天皇)に額安寺建立を託したという。額安寺は官製最初の大寺として、以降百済大寺、大官大寺、大安寺と教義を次いだのである。
 太子道を歴史の道として鑑賞するのであれば、このあたりまず黒田の桃太郎伝説で有名な考霊天皇の庵戸(いおりと)神社。能の面塚、島の山古墳などであろう。
 屏風より北の道であるが、図のコースは少し西よりであるが実際のコースは、もう少し直線的に進み吐田(はんだ)のあたりで大和川を渡ったはずであるが、今では殆ど姿を留めていない。更に進み安堵(あど)町から高安に向かう。大和川は昔から洪水の多い川であらゆる支流が流れ込むこの地帯は、洪水の中心である。現在でも少し前までは大和川が氾濫し、支流の川の水が行き場を失って流域に溢れ出す。奈良、大阪県境の亀の背は今も地盤の悪い地震地区で、ここが塞がれれば奈良盆地一体は沼地と化す。太子の時代から今まで1400年、100年に一度の災害でも15回見舞われていることになる。灌漑工事の幼稚な昔は洪水の巣であった。やがて高安から西に向かい、法起寺、法輪寺、中宮寺、と続き斑鳩寺にいたる。
 いわゆる筋違道といわれる太子道はここまでであるが広い意味での太子道は斑鳩を中心とした太子縁りの各道々をいう。特に太子が崩御して磯長(しなが)へ葬られた太子葬送の道は忘れられない。この道は竜田から船戸の渡しを渡り王寺に入る。達磨寺(だるまじ)を過ぎ片岡山の餓え人に出会った片岡山を過ぎ、現在の国道168号に沿い更に国道165号に沿って逢坂(おおさか)にいたる。直進すれば国道168号で左におれれば屯鶴峰(どんずるほう)から穴虫峠である。峠を越えればやがて磯長にいたる。
 さてこの太子道、太子は17キロもある道を毎日往復したのであろうか?常識的にはありえない。よく分らないが例えば1ヶ月小懇田で勤務し、1ヶ月斑鳩で生活したというのが常識的なところであろう。さらに太子は摂政後半は殆ど事跡がない。蘇我馬子と政治哲学が合わず、斑鳩で仏教三昧で暮らしたと思われる。太子信仰がはやりだしたのは平安の後期以降である。『聖徳太子伝暦』は10世紀に出来上がりこの頃のことであろう。太子信仰が興隆するといよいよ伝説化され同時に太子詣でがはやったのである。太子詣では法隆寺にとどまらず、あらゆる太子の足跡のある場所を訪れた。これがやがて太子道として後世伝説化されていったのであろう。

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