はじめに

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内山永久寺

 13世紀(鎌倉時代)に建立された石上神宮の国宝「出雲建雄神社」の拝殿が3月12日何者かにより放火された。火事は幸いぼや程度ですみ、修理可能との事であるが、つい先日は仏像を盗み、家でおがんでいたり、かっては法隆寺の金堂の火事で壁画を消失させた。これは、三島由紀夫の「金閣寺」で有名である。誰がこのようなことをするのか、我々と国宝の距離をますます遠ざける結果になるのを心配する。石上神宮には天理方面に行くとその都度ぶらりと立ち寄るほど何十回となく行ったものである。「出雲建雄神社」の拝殿はその都度眺めていたのであるが何故ここにあるかは殆ど気にしなかった。数年前、これがもと内山永久寺に在ったものであり明治初めの廃仏毀釈によりこちらに移されたものであることを知るとともにその数奇な運命に関心をよせた。


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石上神宮の「出雲建雄神社」

 内山永久寺は石上神宮のすぐ南側の山の辺の道沿いにかって存在していた寺院である。
永久年間(1113年-1118年)に鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第2世頼実が創建し、第3世尋範に引き継がれて堂宇の整備が進められた。このため、当初より興福寺大乗院の末寺としての性格を備え、また本地垂迹説の流行と共に石上神宮の神宮寺としての性格を備えるようにもなり、興福寺を支配していた2大院家の一方である大乗院の権威を背景として、室町期には絶大なる勢力を誇った。最盛期は50以上の堂塔が並ぶ大伽藍を誇り、奈良では東大寺、興福寺、法隆寺につぐ待遇を受ける大寺であった。
ここに本地垂迹説とはかって神仏習合思想で日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えであり、神宮寺とは神社の中にある寺院である。このようにして日本古来の神々と仏が共存する世界を作り上げたのである。
 それが一変して明治に入り「廃仏毀釈」の嵐が吹き荒れることになる。一般に「廃仏毀釈」と言えば、日本において明治維新後に成立した新政府が慶応4年に発した太政官布告「神仏分離令」、明治3年に出された詔書「大教宣布」など神道国教・祭政一致の政策によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。
神仏分離令や大教宣布は決して仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまった。神仏習合の廃止、神体に仏像の使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の取り壊し、仏事の禁止、民間への神道強制などを急激に実施したために大混乱となった。
 内山永久寺もこの間神宮寺という立場で石上神社以外檀家を持たない為、守護する立場の人がおらず、結果として当時最もひどい迫害を受け、1棟も残さず破壊され僧侶は還俗して神官となり、寺内の仏像、宝物は有識者に引き取られた。現存するものも数多あるが当時の鎮守社である住吉神社拝殿を「出雲建雄神社」の拝殿として大正3年(1914)に現在地に移築し重要文化財に指定され、昭和29年に国宝指定された。

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