大和三山の歌

大和三山の歌
 昔から男女の三角関係はどこにでもあったらしく、この話題は絶えないのであるが、この三角関係を大和の三つの山になぞらえた中大兄皇子(天智天皇)の有名な歌が万葉集に載せてある。その歌を「題詞、長歌、第一反歌、第二反歌、左注」のまま以下に記す。

   中大兄(近江宮に天の下治めたまひし天皇)の三山の歌一首

  香具山(かぐやま)は 畝火(うねび)ををしと 耳梨(みみなし)と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古も 

  然にあれこそ うつせみも 妻を あらそうらしき

   反歌


 香具山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に来し 印南国原(いなみくにはら) 
 わたつみの 豊旗雲(とよはたくも)に 入日見し 今夜の月夜 さやけかりこそ

右の一首の歌は、今案(おも)ふるに反歌に似(あら)ず。ただし、旧本にこの歌を以て反歌に載(の)せたり。故に、今も猶(なお)しこの次に載す。また、紀に曰く、「天豊財重日足姫天皇(あめのとよたからいかしひたらしひめ)の先の四年乙巳(いっし)に、天皇を立てて皇太子としたまふ」といふ。(巻1の13~15)

 まほろば大和の象徴として大和三山がある。奈良盆地の南端とはいえ平地の真ん中にあたかも人工的に配置したように三つの山(香具山、畝傍山、耳成山)が存在する。標高152、199、140メートル、地高62,127,66メートルの小山である。その三山の中央に昔、藤原京が建造され694年から平城遷都710年まで都として栄えた。藤原京以前の飛鳥時代もこの三山はすぐそばで大宮人の永く慣れ親しんだ山なのである。
 なのにこの天智天皇の歌、昔から有名な万葉学者や言語学者が侃々諤々の議論が現在でも続いて、結論の出ていない疑問がある。この三山を男女の三角関係に擬(なぞら)え、どの山が男でどの山が女であるのか。読者はここでしばらく上の歌を熟読玩味していただきたい。


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藤原京から見た畝傍山 女性的に見える

 

 

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天の香久山


北方向から見た畝傍山男性的である

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東方向から見た耳成山

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南方向から見た耳成山

香具山は男か、女か
① 香具山は/畝傍/雄雄しと…(男らしい、香具山女性説)
② 香具山は/畝傍を/惜しと…(人に取られるのが惜しい、香具山男性説)
どちらを取るかで判断が分かれる。さらに①も②も二つに分かれ
①-1 女の香具山が男の畝傍山を女の耳成山と争った。
①-2 女の香具山が男の畝傍山を男の耳成山と争った。
②-1 男の香具山が女の畝傍山を男の耳成山と争った。
②-2 男の香具山が女の畝傍山を女の耳成山と争った。

 この原因は天智天皇にある。作者はもう少しこの背景を説明すべきなのだ。おそらく、この歌を作ったときには、そのまわりの関係者には、だれが男でだれが女で、どんないきさつで問題がおこったのか周知のこととして歌ったのである。そして何かの男女三角関係の事件を三山になぞられ記憶していた。この時代にはそのようなことは誰でも知っていたことなのである。それなのに、今になってはその背景にある事柄は忘れられて我々の時代に物議を醸しているのである。このことは左注にしるされている。すなわち第二反歌であるが、万葉集の編者が長歌に対して第二反歌は本当に反歌なのか。意味が通らないではないか。でも前の資料にはこの通り記録されているので、その通りそのまま載せましたと記録したのである。なんと親切な編者であろうか。編者が理解できないといって勝手に内容を変えたり削除したら、原資料は現在に伝わらなかったのである。第二反歌は短歌として万葉屈指の名歌なのである。
 ならば第一反歌は万葉編者は理解出来ていたのであろうか。これさえ現在の学者は理解できていないのである。第一作者である天智天皇が制作した歌を誰かが記録し、その記録を万葉編者が取捨選択し現在に残し、現在の読者が理解し鑑賞しているのである。三段階の人間共が違った環境、違った常識のもとに理解するのはもともと無理なのかも知れない。特に万葉集は万葉仮名で書かれているのである。漢字は各々意味があるのに万葉仮名になるとカタカナと同じく表音文字になる時代であって意味がとうらず意味不明の歌が非常に多い。特に困難なのは韓国、中国からの帰化人が韓国語などで万葉朝鮮語仮名などで書かれているらしいのである。


 さて、常識的に解釈してみよう。②-2は女と女が男を争うことはあり得るが、男が愛しいとおもった女を女が愛することはホモだから普通ないからこれは有りえない。三角関係といえば男と男が一人の女をあらそうのがふつうだろう。従って、②-1が最もありそうだ。①-1は女の香具山が女の耳成の彼を横恋慕したと解釈できるし、①-2は女の香具山が男の耳成から男の畝傍に心変りしたと解釈できるからいずれもありうるのである。しかしあくまでも在り得ることと、この歌が云いたいこととは別である。
 

 最後にこれも有名な歌である。額田王(ぬかたのおおきみ)は昔大海人皇子(おおあまのおうじ)の妻であったが現在は中大兄皇子の妻になった。大海人皇子が額田王に

 あかねさす 紫野(むらさきの)ゆき 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る

それに対して額田王が大海人皇子に

 紫草(むらさき)の にほえる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我恋ひめやも

と返歌した。
これを現在も我々が知っているから、この事を三山に掛けた歌と思うかもしれないがこれは関係が無いと云うことである。念のために

 


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斑鳩の春

斑鳩の春
山背大兄王は考えている。どこで間違ったのか?なぜここで一家滅亡の事態になったのか。蘇我入鹿に追われ一度は生駒山中に逃れたものの、そこで進退きわまった。家来の者は一度ここから東国にのがれ、再起を期せばまたチャンスは必ず訪れる。それまでの辛抱であると。そうかもしれない。勝算が零ではあるまい。しかしあくまで自分ががんばって妻子に塗炭の苦しみを味あわせ、更に兵士を際限も無く死なせてよいものだろうか。もう争いはやめよう。太子の頃の物部戦争の二の舞は真っ平だ。一家二十五人共に潔く生命をまっとうしよう。
生駒をでて平群谷を通り生まれ育った斑鳩宮に再び戻ってきた。やがてなつかしい法輪寺と法起寺の三重塔が二つ、斑鳩宮の五重塔とならんで我々を迎えてくれた。懐かしい景色だ。法起寺は岡本の地に岡本宮として父聖徳太子が作りはじめ、完成を待たず死んだのを遺志を継いで完成させたのだ。岡本宮は法起寺とし亡き聖徳太子の菩提をともらった。法輪寺は父が病に倒れたとき、自らその病気平癒をいのって、建立した。さらに中宮寺がみえる。父太子が母の穴穂部間人皇后の御所としていた宮あとである。子供のころ斑鳩宮と中宮寺のあいだをいつも走りまわっていた。
 あの頃は素晴らしい時代だった。推古天皇が皇位につき聖徳太子が皇太子となり、蘇我馬子が輔弼した。皆若かった。油ののりきった働き盛りであった。中国隋より使者がくる。新羅、百済からも予定している。それにあわせて小懇田宮を作り始め、まもなく完成し遷都する。小懇田宮にあわせて大和川河川の改修をし、船の安全航行をはからねばならない。陸路も充実させ浪速から飛鳥への横大路を完成させなければならない。外国の使者に大和国の都を見てもらい、侮りを受けてはならない。豪族の秩序をまもるため、冠位十二階も整えた。十七条憲法もまもなくできあがる。父太子のたっての願望であった斑鳩宮も完成まじかだ。皆、生き生きとして新しい時代の建設に邁進していた。

斑鳩宮に移って山背は勉学に励んだ。父は皇太子でやがて推古の次ぎの皇位につくだろう。自分は皇太子になるはずである。父はさることながら母は刀自古郎女で馬子の娘である。これほど磐石な血筋は望めない。父の名を辱めない人間にならねばならない。偉大な父のあとだ。生半可なことではならない。だが、やがて父は斑鳩にこもることが多くなった。仏教に帰依し、経典を見ることに時間を費やした。仏像の前で瞑想することも多くなった。蘇我馬子とうまくいかなくなったのであろうか。622年父太子が薨去した。思いもかけぬ事態だ。まだ48歳、推古68歳、馬子71歳。一番若いのだ。ここから歯車が狂い始めたのだ。626年馬子75歳で死亡、その二年後推古74歳でこの世を去った。
 推古は後継者を指名していなかった。推古以降の権力者は蘇我蝦夷である。蝦夷はどちらかといえば馬子程に権力欲が強くないがその息子入鹿が山背と殆ど同年代で徐々に頭角をあらわしはじめた。入鹿は権力欲が強く,自信家で蘇我の直系を鼻にかけ、後継有力者の山背を皇位に就くのに反対した。おそらく、山背は入鹿の意のままにならないと思ったのであろう。蘇我の血が全く入っていない田村皇子を後継につけた。舒明天皇である。舒明13年まで生きたのち、間もなく薨去し、女帝皇極が皇位についた。これも、蘇我入鹿の画策である。山背はこの時なお健在で今度こそと思ったであろう。だが入鹿は皇極の執政となり、山背は完全に望みを断たれた。蘇我入鹿が突然斑鳩を攻めてきたのはその翌年の皇極2年である。かねてより不穏な空気がただよっており警戒していたが、相手が悪い。すぐさま斑鳩を出て生駒にこもった。そして考えるところがあり、再び斑鳩に戻ってきたのである。


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法輪寺三重塔

 春はまだ早い。例年3月4月には見わたすがぎりの田畑に一面すみれが咲き、のどかな景色がひろがる。今はまだすみれには早く法隆寺の五重塔は寒さをがまんしているが如く孤独にたっている。法隆寺を北東に歩をすすめれば、やがて法輪寺の三重塔が見えてくる。更に北東に法起寺の日本最古の三重塔がある。いつもここに来ると日本の良さを実感する。奈良の良さといったほうが良いのかもしれない。秋はコスモスが地面を覆う。古都の面影だけが生きており都会の喧騒から完全に隔離されている。しかし1400年前にはこの血を血で洗う抗争が実際に起きたのだ。山背の墳墓といわれているところが現在三箇所ある。いずれもこの近辺で矢田丘陵の中である。

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