斑鳩の春

斑鳩の春
山背大兄王は考えている。どこで間違ったのか?なぜここで一家滅亡の事態になったのか。蘇我入鹿に追われ一度は生駒山中に逃れたものの、そこで進退きわまった。家来の者は一度ここから東国にのがれ、再起を期せばまたチャンスは必ず訪れる。それまでの辛抱であると。そうかもしれない。勝算が零ではあるまい。しかしあくまで自分ががんばって妻子に塗炭の苦しみを味あわせ、更に兵士を際限も無く死なせてよいものだろうか。もう争いはやめよう。太子の頃の物部戦争の二の舞は真っ平だ。一家二十五人共に潔く生命をまっとうしよう。
生駒をでて平群谷を通り生まれ育った斑鳩宮に再び戻ってきた。やがてなつかしい法輪寺と法起寺の三重塔が二つ、斑鳩宮の五重塔とならんで我々を迎えてくれた。懐かしい景色だ。法起寺は岡本の地に岡本宮として父聖徳太子が作りはじめ、完成を待たず死んだのを遺志を継いで完成させたのだ。岡本宮は法起寺とし亡き聖徳太子の菩提をともらった。法輪寺は父が病に倒れたとき、自らその病気平癒をいのって、建立した。さらに中宮寺がみえる。父太子が母の穴穂部間人皇后の御所としていた宮あとである。子供のころ斑鳩宮と中宮寺のあいだをいつも走りまわっていた。
 あの頃は素晴らしい時代だった。推古天皇が皇位につき聖徳太子が皇太子となり、蘇我馬子が輔弼した。皆若かった。油ののりきった働き盛りであった。中国隋より使者がくる。新羅、百済からも予定している。それにあわせて小懇田宮を作り始め、まもなく完成し遷都する。小懇田宮にあわせて大和川河川の改修をし、船の安全航行をはからねばならない。陸路も充実させ浪速から飛鳥への横大路を完成させなければならない。外国の使者に大和国の都を見てもらい、侮りを受けてはならない。豪族の秩序をまもるため、冠位十二階も整えた。十七条憲法もまもなくできあがる。父太子のたっての願望であった斑鳩宮も完成まじかだ。皆、生き生きとして新しい時代の建設に邁進していた。

斑鳩宮に移って山背は勉学に励んだ。父は皇太子でやがて推古の次ぎの皇位につくだろう。自分は皇太子になるはずである。父はさることながら母は刀自古郎女で馬子の娘である。これほど磐石な血筋は望めない。父の名を辱めない人間にならねばならない。偉大な父のあとだ。生半可なことではならない。だが、やがて父は斑鳩にこもることが多くなった。仏教に帰依し、経典を見ることに時間を費やした。仏像の前で瞑想することも多くなった。蘇我馬子とうまくいかなくなったのであろうか。622年父太子が薨去した。思いもかけぬ事態だ。まだ48歳、推古68歳、馬子71歳。一番若いのだ。ここから歯車が狂い始めたのだ。626年馬子75歳で死亡、その二年後推古74歳でこの世を去った。
 推古は後継者を指名していなかった。推古以降の権力者は蘇我蝦夷である。蝦夷はどちらかといえば馬子程に権力欲が強くないがその息子入鹿が山背と殆ど同年代で徐々に頭角をあらわしはじめた。入鹿は権力欲が強く,自信家で蘇我の直系を鼻にかけ、後継有力者の山背を皇位に就くのに反対した。おそらく、山背は入鹿の意のままにならないと思ったのであろう。蘇我の血が全く入っていない田村皇子を後継につけた。舒明天皇である。舒明13年まで生きたのち、間もなく薨去し、女帝皇極が皇位についた。これも、蘇我入鹿の画策である。山背はこの時なお健在で今度こそと思ったであろう。だが入鹿は皇極の執政となり、山背は完全に望みを断たれた。蘇我入鹿が突然斑鳩を攻めてきたのはその翌年の皇極2年である。かねてより不穏な空気がただよっており警戒していたが、相手が悪い。すぐさま斑鳩を出て生駒にこもった。そして考えるところがあり、再び斑鳩に戻ってきたのである。


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法輪寺三重塔

 春はまだ早い。例年3月4月には見わたすがぎりの田畑に一面すみれが咲き、のどかな景色がひろがる。今はまだすみれには早く法隆寺の五重塔は寒さをがまんしているが如く孤独にたっている。法隆寺を北東に歩をすすめれば、やがて法輪寺の三重塔が見えてくる。更に北東に法起寺の日本最古の三重塔がある。いつもここに来ると日本の良さを実感する。奈良の良さといったほうが良いのかもしれない。秋はコスモスが地面を覆う。古都の面影だけが生きており都会の喧騒から完全に隔離されている。しかし1400年前にはこの血を血で洗う抗争が実際に起きたのだ。山背の墳墓といわれているところが現在三箇所ある。いずれもこの近辺で矢田丘陵の中である。

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