太子道

太子道

 奈良県の地形を見ると二つの特徴がある。図に見るように大和川を魚の背骨にして支流となる川が子骨のように北から南からながれこんでいる。盆地の川はこれ一本である。もう一つは盆地の標高で一番低いところは大和川が大阪に流れ込むところで約30m、一番高い盆地部は約100m、全体として大和川の南の支流は北西に,北の支流は南西に流れている。飛鳥時代以前の南北の道はおそらく川に沿って通っていたとおもわれる。なぜなら川を渉るのは大変難儀なことだからである。奈良時代になって条理制をとり東西に横大路、縦に下つ道、中つ道、上つ道の3本が官道として開通され南北交通はこの道を利用することになるが、これ以外の道はこのまま残ったとおもわれる。また、田んぼであるが,必要な水は主として川の水をひくことになるが、川に沿った田んぼは川に平行となる。灌漑用水も田の方向に沿うことになる。従って必然的に奈良県の道も北から西へ20°傾いた地形となる。太子道といわれる今回主題の道も飛鳥川と寺川の間を巧みに縫って通っている。

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奈良盆地の河川の状態

 さて聖徳太子の斑鳩の宮が完成したのが601年、小懇田(おはりた)の宮に移ったのが603年、太子の亡くなったのが622年である。従ってもし大子が太子道を通って毎日通ったとして20年間である。更に小懇田が定説とおり豊浦(とゆら)の近辺もしくは雷岡(いかずちのおか)東方どちらでも17km、もし桜井(大福)の三十八柱神社(みそやはしらじんじゃ)の近辺と考えたら12kmである。説話によれば斑鳩寺を建てるのに飛鳥から矢を吹き、落ちた所が屋就神社(やつぎじんじゃ)で、これでは近すぎるというのでそこから第二の矢を吹いた。するとそこは屏風(びょうぶ)近くの杵築(きつき)神社内に落ち、更に三の矢をついだ。そこで落ちたのが斑鳩であったので其処を斑鳩寺の場所に決めたというのだ。それはともかく太子道はこの3区画で説明する。

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    太子道(筋違道)

(http://sanzan.gozaru.jp/kodou/taisimiti/taisi1/taisi1.html  の図を拝借)

 飛鳥、屋就間では太子道の面影は殆ど無い。ただこの飛鳥桜井橿原地帯は太子の伝承が多く、古道も多い為5,6通りが用意されている。伝説とおり屋就街道は太子道であろうといわれている。屋就神社近くに多(おお)神社があり春分、秋分の頃は東に三輪山から太陽があがり、西に二上山へ陽が沈む所である。
 最も太子道の面影を残しているのは屋就屏風間である。この間、黒田、伴道、屏風の3キロの間はその痕跡をよく残している。太子腰掛の石や太子接待の絵馬がある杵築神社は太子昼食時、屏風をたてて風を防いだということが「太子伝私記」に記されているという。太子道から少し離れるが、額安寺がある。ここは太子が自分の太子達の教育のため、インドの祇園精舎をまねて学問所を作ったのが始まりで、太子が晩年病気になったのを推古天皇の名代として見舞いに来た田村皇子(後、舒明天皇)に額安寺建立を託したという。額安寺は官製最初の大寺として、以降百済大寺、大官大寺、大安寺と教義を次いだのである。
 太子道を歴史の道として鑑賞するのであれば、このあたりまず黒田の桃太郎伝説で有名な考霊天皇の庵戸(いおりと)神社。能の面塚、島の山古墳などであろう。
 屏風より北の道であるが、図のコースは少し西よりであるが実際のコースは、もう少し直線的に進み吐田(はんだ)のあたりで大和川を渡ったはずであるが、今では殆ど姿を留めていない。更に進み安堵(あど)町から高安に向かう。大和川は昔から洪水の多い川であらゆる支流が流れ込むこの地帯は、洪水の中心である。現在でも少し前までは大和川が氾濫し、支流の川の水が行き場を失って流域に溢れ出す。奈良、大阪県境の亀の背は今も地盤の悪い地震地区で、ここが塞がれれば奈良盆地一体は沼地と化す。太子の時代から今まで1400年、100年に一度の災害でも15回見舞われていることになる。灌漑工事の幼稚な昔は洪水の巣であった。やがて高安から西に向かい、法起寺、法輪寺、中宮寺、と続き斑鳩寺にいたる。
 いわゆる筋違道といわれる太子道はここまでであるが広い意味での太子道は斑鳩を中心とした太子縁りの各道々をいう。特に太子が崩御して磯長(しなが)へ葬られた太子葬送の道は忘れられない。この道は竜田から船戸の渡しを渡り王寺に入る。達磨寺(だるまじ)を過ぎ片岡山の餓え人に出会った片岡山を過ぎ、現在の国道168号に沿い更に国道165号に沿って逢坂(おおさか)にいたる。直進すれば国道168号で左におれれば屯鶴峰(どんずるほう)から穴虫峠である。峠を越えればやがて磯長にいたる。
 さてこの太子道、太子は17キロもある道を毎日往復したのであろうか?常識的にはありえない。よく分らないが例えば1ヶ月小懇田で勤務し、1ヶ月斑鳩で生活したというのが常識的なところであろう。さらに太子は摂政後半は殆ど事跡がない。蘇我馬子と政治哲学が合わず、斑鳩で仏教三昧で暮らしたと思われる。太子信仰がはやりだしたのは平安の後期以降である。『聖徳太子伝暦』は10世紀に出来上がりこの頃のことであろう。太子信仰が興隆するといよいよ伝説化され同時に太子詣でがはやったのである。太子詣では法隆寺にとどまらず、あらゆる太子の足跡のある場所を訪れた。これがやがて太子道として後世伝説化されていったのであろう。

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