三十八柱(みそやはしら)神社

三十八柱(みそやはしら)神社

****** 天皇 初 終 在位 飛鳥 飛鳥以外 小懇田
33 推古天皇 592 628 37 11 26
34 舒明天皇 629 641 13 5 6 2
35 皇極天皇 642 645 4 1 3
36 考徳天皇 646 654 9 7 2
37 斎明天皇 655 661 7 6 1
38 天智天皇 662 671 10 5 5
39 広文天皇 672 672 1 1
40 天武天皇 673 686 14 14
41 持統天皇 687 698 8 8
***********103 33 32 38

古代史の時代区切りに飛鳥時代があるが、この時代飛鳥に都が置かれていた時代と認識しているが、ずっと飛鳥に都を構えていたわけではない。飛鳥時代以降は藤原京時代になるが710年平城京に遷都するまで、藤原京から動かなかったし平城京以降もおなじである。飛鳥時代以前は天皇の宮殿が都とされ一天皇一宮殿が原則で京といわれるものがなかった。一応磯城嶋と呼ばれる三輪山の麓周辺から磐余地方という桜井市周辺が日本の故郷と云われ、古代王朝が好んで都した場所であるし、ここに都することが王権を確立する条件である如きものがあった。
 この飛鳥時代は一応推古天皇が592年崇峻天皇暗殺の後をついで第33代の天皇即位した時を始まりとする。都を豊浦宮におき聖徳太子を立太子させた。以降694年藤原京遷都までの103年間である。

それでは飛鳥とはどこをいうのか。その範囲は一応天の香具山の南、飛鳥川の東の山に囲まれた範囲と云うのが定説である。この間9代103年間のうち、飛鳥に都した期間は33年間、飛鳥以外が32年間、残りは小懇田宮に38年間在位したことになる。ではこの小懇田宮時代はどのように解釈するのだろうか。小懇田宮は他の宮殿もそうであるが所在地確定がされていない。飛鳥XXと宮廷名に場所名がついているものは、間違いなく飛鳥だったのであろうが、小懇田宮は飛鳥がついていない。現在この所在地について三つの有力な説が存在する。
 ①小懇田は飛鳥の総称である。あるいは飛鳥そのものでる。
 ②小懇田は豊浦にある。あるいは豊浦の近くにある。
 ③小懇田は耳成の東、大福にある。
従来小懇田宮は聖徳太子で有名な推古天皇の都で何の疑いも無く飛鳥に存在すると考えられていた。もちろん①または②と解釈され②の豊浦も飛鳥川の川向こうと云うことで場所的には大きな論争はなかったものと思われる。しかし、梅原猛先生が飛鳥の研究を始めた頃、その場所にいたく関心があり、調査している間に③の説の存在を知ることとなった。大福は近鉄大阪線八木駅と桜井駅の間にあり北海道の幸福駅と同じく縁起のよい名前で一時有名になった。小懇田大福説は三十八柱(みそやはしら)神社の宮司の石井繁男氏が以前より古今の書を読み漁り、この説を梅原猛先生に説明をした。初め大福説を信じなかった先生もその説の的確さに感心し、やがてこの説を信じることとなり1980年発表したものである。今では「小懇田宮伝承乃地」の碑が先生の揮毫で建立されている。それから30年たつがその後の進展が見られていない。決定的にはその遺構が発見され考古学的発掘調査が行われなければ、文献検証だけでは確定出来ないであろう。

90049_2013091510125468a.jpg
梅原猛先生の「小懇田宮伝承乃地」の碑

90048_20130915101407fb3.jpg
神社の社歴が書いている

 さて、小懇田が飛鳥であろうがなかろうが、表に見るごとく都が何度となく移動した。この出たり入ったりの繰り返しはなにによってもたされたのか。二つの要因が考えられる。一つは求心力。天皇権力基盤が弱いときは、常に当時の権力者の庇護をうけなければならない。当時の飛鳥は蘇我氏の本拠で蘇我稲目の娘を後宮に入れ外戚として権力を握っていた。さらにこれから蘇我馬子の時代になり権力の絶頂に達しているときであった。崇峻天皇暗殺は権力に刃向う者の結果を象徴していた。当時東漢氏という帰化氏族の武力と文化力と技術力が他を圧倒し、これを後ろ盾にした蘇我氏が権力を独占した。一方は遠心力である。蘇我氏の縁戚とはいえ独立した権力を維持したい天皇家は、折あらばその影響力から距離をおきたいのは当然である。603年小懇田宮遷都はこのような時に行われた。推古天皇発足より10年過ぎてこの間聖徳太子は馬子の影響力から脱するためにあらゆる努力をはらったにちがいない。折りしも607年隋からの使者が来る。百済、新羅の使者も迎えなければならない。豊浦宮の稲目の邸宅では外国の賓客をもてなせない。どうしても宮廷なるものが必要である。そしてできれば蘇我馬子の元を離れたい。これは太子の力をもって、最大限遠心力が働いた時であろう。太子は蘇我氏の力をたよらず、秦氏、膳夫氏などの力をかりた。推古朝当初から計画した斑鳩宮や横大路もできあがりかけた。小懇田宮の建設には太子は苦労したであろう。さすがに斑鳩では蘇我氏が我慢していまい。海外使節をむかえるには船便のよい大和川流域がよい。そして何より飛鳥から離れたところがよい。大福は絶好の地である。敏達天皇の宮廷もすぐそばだ。

 そして小懇田宮が出来上がった。記録によれば南門から入り朝庭には庁が並び北に大門があって内裏につうじる、のちの朝堂院の原型がすでに出来上がったいたという。このような努力で出来上がった宮は飛鳥内であるはずがないと思う。やがて太子は数々の業績をあげながら後年太子は仏教の道に傾倒し、推古、馬子に先立って死んだ。太子の死後蘇我氏はさらに力をつけた。その後、推古、馬子共にこの世を去ったが、蘇我氏の子孫の蝦夷、入鹿の時代になり益々、権勢を増していった。
 さて小懇田大福説が成り立てばどうなるのか?先ほどの表で飛鳥33年飛鳥以外70年となり飛鳥時代といいながら実は飛鳥に都した時代はその名に値しないほど短かったことになる。

目次に戻る

HPに戻る

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です