3.薬師寺の思い出

薬師寺の思い出

関西以外に住んでいた子供にとって、最初の奈良との出会いは修学旅行であろう。その時始めて見る大仏さんの大きさ、鹿にせんべいをあげる初めての体験は一生涯忘れられない思い出である。だが私は当時千葉県市川にすんでいて中学三年生の関西旅行に先立つ数年前奈良に来た経験がある。それは、祖父と兄貴と私の三人で高野山詣でにきたのである。いつだったか覚えていない。中学にあがる後か前かさだかでない。祖父が一度高野山に参りたいと親父に相談したのであろう。父の紹介で旅行の前か後に薬師寺に泊まることになった。薬師寺に泊まることになったのは、父が当時の管長であった橋本凝胤先生と知り合いであったからである。雑誌のスクラップを持ってきて写真を見せてもらったことがあるが、外国の訪問者を管長が案内しており、そこに父が写っていた。写真の説明に父のところを、一人おいてと書かれているのがおかしかったのを覚えている。旅行の道順は兄貴が計画したらしかったが関西にはいってどの鉄道をどのようにたどったか、全然おぼえていないのである。片道一泊したのか往復二泊したのかもおぼえていない。ただ、美しい宿坊と当時副管長だった高田好胤先生の薬師寺説明が大変上手で面白かったのをおぼえている。
当時といっても50年位まえのことである。その時はまだ昭和の大修理ははじまっておらず、薬師寺東塔と旧の講堂と東院堂があっただけで、本尊薬師如来と日光、月光菩薩は講堂におさめられており、奈良に多い古びたお寺であった。この中に現在の仏様を全部納めていたのであろうか。仏足石は庭の隅に雨ざらしになっていたのを覚えている。
数年たってお決まりの関西修学旅行に再度薬師寺を訪れた。この時も高田好胤先生にお寺の説明をしてもらったのをおぼえている。
三度薬師寺を訪れたのは、就職試験のときである。関東の人間が何故大阪に就職しなければいけないのか多少の違和感を覚えながら関西に来た前日薬師寺に泊まった。その時、接待された若いお坊さんとなにやら論争したおもいでがあるが、論点が何であったかおぼえていない。
当時住み着くつもりのなかった奈良にいつしか永住するはめになった。結婚し子供もできて家もたてたいとおもった。そこで奈良に住み着くことになったのである。

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屏風<薬師の里>

やがて、昭和の大修理が始まった。金堂ができ、西塔ができ、回廊ができ、講堂まで新築された。この間の高田好胤先生の八面六臂の活躍は驚異的であった。何回も先生の講演を聞かせていただいた。そしてついに、薬師寺は天平の輝きをとりもどした。父は何回も我家にきていた。そのある日、晩年に近いときであるが久しぶりに薬師寺をおとずれた。まばゆいばかりの薬師寺をみてポツンとつぶやいた。「新しいお寺はありがたくない」

すでに三人は霊界に住み、何を話し合っているだろうか。高田好胤先生はおやじに、どんな寺でも建立当時はみなキンピカだったのですよ。橋本凝胤先生は「まあまあ浮世のことなどどうでもよいではないか」などと話しているに違いないのである。

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