志賀直哉の奈良上高畑サロン

志賀直哉の奈良上高畑サロン

志賀直哉が奈良市高畑に10年ほど住んでいた。東大寺の西側の道を南にくだり、現在奈良教育大学のキャンパスの北側の道を入ると、本薬師寺の前を北に入った閑静な住宅街にある。春日神社の境内と殆ど地続きとなっている。先日ここに訪れた時、あいにく工事中で、家の中に足をふみいれられなかった。仕方なく庭を一回りして工事している家の中を覗くだけだった。五月になればオープンするとのことであった。
 志賀は1883年(明治16年)陸前石巻で生まれた。祖父がかつて古河市兵衛と足尾銅山を共同経営していたという。従って相当な資産家であった。学習院の初等科、中等科に行き1906年(明治39年)、東京帝国大学へ入学し1910年中退した。
志賀の人生を辿るに彼と深く関わった四つの事柄が重要である。①内村鑑三との出会い、②白樺派の中心人物としての活動、③父親との葛藤、④東洋美術への回帰である。
内村鑑三との出会いは18歳のときで7年間通った。その間、キリスト教にそまり、当時はやりのプロレタリア文学に足を踏み込まずにすんだ。③の父親との葛藤は最初の恋愛問題から父の実業家であることによる作家志望への反対といった生き方に関する衝突で大層深刻なものであった。これが「大津順吉」、「正義派」、「和解」といった作品を生む。さらに母にまつわることなどが重なり、親との決別にいたる。そのことから世田谷、尾道、京都、奈良へと住居を移す。③の東洋美術との出会いは、尾道、京都、奈良時代に徹底して作品を鑑賞し、従来のキリスト教的、西洋個人主義に徹した思想に重大な影響を与えたようである。代表作「暗夜航路」は前編は1921年(大正10年)に発表し後編は奈良時代の1937年(昭和12年)の発表で完成まで16年を要した。勿論、殆どが中断の期間が長かったのであるが、その間の作家としての思想変遷が激しく、この作品だけで志賀直哉の人生を理解できる。志賀直哉に限らず、この時代の作家は自伝小説が多く、小説の題材を自分の人生経験にもとめているからである。

上高畑サロン
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 父親が資産家だったこともあり志賀の家計は父の仕送りに頼っていたようである。当然奈良の邸宅も仕送りであるが、志賀は建築にも関心を示し、設計はすべて自分で行ない、工事は親友の大工と共に作り上げたようである。彼は自分の生活や個室としての書斎に心を配り、友人との応接についても居間と食堂一体となった「上高畑のサロン」と呼ばれる部屋を用意し、白樺派文人に限らず多くの文人、画家等芸術家を招待しては麻雀、囲碁、将棋など遊興にすごし、殆ど作家活動をしなかったようである。作品も「暗夜航路」の後編と2~3の作品にかぎられた。勿論奈良を初め関西の名所旧跡を訪れ、特に東大寺別当の上司海雲とは特に昵懇の間柄であった。
 志賀が奈良に来る数年前、大正12年、関東大震災があった。この時谷崎潤一郎が芦屋に引っ越してきた。ここで「卍」「細雪」を制作したのであるが時々志賀の家を訪れては色々話をしたようである。お互いに関西の良さに共感し文学、芸術に話がはずんだ。しかし、関西の悪さも共感した。時にはコテンパンの悪口も言ったようである。
 1938年(昭和13年)志賀は家族共々鎌倉に移り住んだ。奈良を去り東京へ帰った後も「奈良はいい所だが、男の児を育てるには何か物足りぬものを感じ、東京へ引っ越してきたが、私自身には未練があり、今でも小さな家でも建てて、もう一度住んでみたい気がしている」と奈良への愛着を表している。
 私事になるが自分も東京育ちで関西に就職した。結婚をし子供を設け、子供たちが学校に行くようになったとき、志賀と同じ思いにかられた。せめて自分だけは関東弁でがんばったのであるが、所詮空しいことであった。志賀と谷崎の会話に私も加わり2~3云いたいことがあったのである。

 

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