転害門とナラノヤエザクラ
ナラノヤエザクラは伊勢大輔の詠んだ和歌により名高い。
いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂ひぬるかな
このナラノヤエザクラは奈良にはえている八重桜という意味ではない。れっきとした学術用語である。花を良く見ると勿論八重桜でもなければ、ソメイヨシノでもない。オクヤマザクラ(カスミザクラ)の変種で、4月下旬から5月上旬に開花する八重桜である。他の桜に比べて開花が遅く、八重桜の中では小ぶりな花をつけるのが特徴である。上の和歌にあるように、奈良時代から桜があったようで、この歌はナラノヤエザクラを歌ったものとわれている。
さらに江戸時代初期、1678年に出版された『奈良名所八重桜』は奈良の八重桜について記述している。天平時代、聖武天皇は三笠山(いまの若草山)奥の谷間で美しい八重桜を見つけ、その八重桜の話を光明皇后にしたところ、光明皇后は一枝でも構わないから見てみたいと大変興味を持った。聖武天皇の臣下たちは気をきかせ、その八重桜を宮中に移植した。以来、春ごとにその桜を宮中の庭で楽しみ続けられたという。
いがいにこの花のことは奈良でも知られていないが、奈良県の県花になっており、天然記念物である。先日テレビを見ていたら、奈良女子教育大学の生徒がナラノヤエザクラの花びらを醗酵させて日本酒を作っていたが、出演者の試飲によると大層うまいとのことであった。機会があれば飲んでみたいものである。
実はナラノヤエザクラを知ったのは去年のことである。ブログを書いている関係でHPの表紙にと、生えているところを調べて奈良に写真を撮りにいったのであるが早すぎて撮りそこない、すこし時間をおいてまた撮りに行ったら散ってしまっていた。今年こそと思い連休明けに奈良に出て行った。この花の咲いているのは奈良県庁前、東大寺転害門の付近、知足院と奈良公園の中で、知っていないとついつい見逃してしまうほど、ポピュラーな花ではない。いわゆる桜のように咲き乱れて春爛漫というものではなく、一本ずつ、間隔をもってひっそりと咲いているのである。
写真のナラノヤエザクラは転害門の内側、奈良市立鼓阪小学校(つざか)の門の外側に数本さいていた。この学校は奈良の最初の小学校で歴史が古いのであるが何と言っても転害門の偉容に圧倒される。転害門の真西に一本の道があり、これが平城京に通じる一条通りである。転害門は数ある東大寺の遺構の中でも、創建当初の姿を伝える唯一の遺構であるという。
東大寺内には手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)が鎮座する。これは天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請された。八幡宮からの分社では第一号である。この神社への御旅所として神輿が転害門より出発した。
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転害門の西側
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転害門裏のナラノヤエザクラ
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東大寺は数々の戦乱や災害の中でも、二回の大きな戦乱に見舞われた。特に第一回は治承四年(1180)十二月二十八日のことである。ことのおこりは、後白河法皇の皇子の以仁王が、源頼政とはかって、平家討伐の兵を挙げようとしたことにある。しかし、計画は早くも平家にかぎつけられたため、以仁王は園城寺(三井寺)へ逃れられたが、平家の軍は、源氏に味方する延暦寺園城寺に焼打をかけた。
以仁王は南都へのがれようとする途中でつかまって殺されてしまった。
かねてから、以仁王に味方していた、東大寺、興福寺の衆徒達は、その報を聞くと、平家の無道をなじって騒ぎたてた。怒った平清盛は、その子重衡に命じて、大軍をひきいて南都に攻め入らせ、東大寺、興福寺の諸方に火を放って、またたく間に堂宇のほとんどを焼きつくした。この時、廬舎那仏の御頭は後に落ち、左右の御手も折れて前に横たわるという見るも無残なお姿になってしまわれた。
東大寺復興の活動は早くからおこなわれ、重源によって再興された。平家の無謀な行為に対する非難の声に応えて、源頼朝の大いなる援助を受け、やがて落慶法要をおこなうこととなる。これに参加すべく頼朝は鎌倉を発ち、東大寺に到着する。このことを、早くから聞き知っていた平家の残党悪七兵衛景清は春日大社の神人に変装して物陰に隠れ、頼朝殺害を画すが、警備厳しく家来の者に追われ、転害門に隠れた。そしてその後いずこかに立ち去ったという。そこでこの門を「景清門」とも呼ばれるようになった。この件は能曲「大仏供養」にあり、また景清は能の世界でも堂々と主役を張っており、伝世阿弥作「景清」では鎌倉からはるばる日向に彼を訪ねてきた娘に源平合戦の事を語る、いはゆる亡霊となってあらわれる。
第二回目は松永久秀と、三好三人衆の争暴である。松永勢は、多聞城に拠り、三好勢は大仏殿に陣を張ったので、その激しい攻略は、東大寺を戦場として行なわれた。そのため、それまでにも、文殊堂、授戒堂、戒壇院、千手堂その他の建物が焼け落ちていたが、十月十日の夜、多聞城を出た松永勢が、三好勢の本陣大仏殿に焼き打ちをかけた。虚をつかれた三好勢の防戦はおよばず、火は廻廊をひとなめにして、大仏殿に燃え移り、ものすごい火柱を立てて、大音響と共に炎上してしまった。
このように、度重なる争乱を耐えてきた転害門の歴史は、東大寺の大仏殿や南大門の華々しい存在とは裏腹に地味な存在であるが、重みがある。貴重な国宝である。出入門は特に争乱の時、敵味方入り乱れる出入り口となるために、火災炎上しやすい。特に奈良の中心に存在し1300年の星霜を生き抜いた存在感に感無量である。
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