桓武天皇の怨霊
系図をみていただきたい(別図拡大図)。天智天皇系と天武天皇系に大きく分かれ、天武系が平城京時代を制し特に聖武天皇時代最盛期をむかえる。聖武天皇と光明皇后の間に基王と阿倍内親王がいたが、基王は生後まもなく亡くなり、以降男子に恵まれなかった。やがて阿倍内親王が皇位につき第46代考謙天皇(のち48代称徳天皇)になるが結婚することが出来ず、生涯独身を通したため、後継者ができなかった。聖武天皇には県犬養広刀自の間に井上内親王(いのえ(いがみ)ないしんのう)がおり、称徳天皇亡きあと最後の聖武天皇の実子であり、白壁王と結婚し他戸(おさかべ)親王を生む。他戸親王は聖武天皇のながれを汲む最後の男子となり且つ天智天皇系の血をもうけつぐことになった。白壁王は天智天皇の第7皇子・志貴皇子の第6子でのち49代光仁天皇となるのであるが、ほかに妃に渡来系高野新笠がおり、山部親王(のち50代桓武天皇)と早良(さわら)親王をもうけた。そして山部親王には実子安殿(あで)親王(のち51代平城天皇)があった。この構図が以下の物語に大変重要である。
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白壁王は744年、36歳で聖武天皇の皇女・井上内親王を妃としたことからにわかに昇進を速め、759年、従三位、762年、中納言に任ぜられる。764年には恵美押勝の乱鎮圧に功績を挙げて称徳天皇の信任を得て、766年には大納言に昇進した。だが、度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、専ら酒を飲んで日々を過ごす事で凡庸を装って難を逃れたといわれている。
称徳天皇が後任を決めずに崩御し聖武天皇の子孫が絶えた。そのため称徳天皇の後半は次期皇位につき血なまぐさい事件があい次いだ。称徳天皇の即位直後から子孫の断絶を見越し、その皇嗣問題では、天武系の文室浄三を推す吉備真備と藤原百川ら藤原氏の推す白壁王に分かれていたが、771年称徳天皇が崩御すると、途端にこの二派は暗闘をはじめた。結果的に白壁王派が皇位を譲り受け、ここに天武系の天皇に代わり天智天皇系の49代光仁天皇が誕生した。この時白壁王63歳、山部王35歳、早良王22歳、井上内親王54歳、他戸王11歳であった。
一方、井上内親王は717年生まれ、聖武天皇の親王ということで幼少で伊勢の斎王に選ばれ、744年斎王を解かれてからまもなく白壁王に嫁いだ。この時、すでに30歳になっていた。37歳の高齢で酒人内親王(さかひとないしんのう)を生み、さらに761年45歳で他戸親王を出産した。他戸親王は女系とはいえ、唯一の聖武天皇系の男子ということが光仁天皇即位の決め手であったとされる。
光仁天皇は井上内親王を皇后とし、他戸親王を皇太子とするが、772年、井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして大逆の罪により皇后を廃し、皇太子の他戸親王も廃した。井上内親王が何ゆえすでに天皇であり高齢でもある光仁天皇を呪詛するのか理由が分からない。一説では皇太子他戸親王を早く天皇にしなければ息子の山部親王が何をするかわからないといった焦りからの行為であるとの説もある。しかし井上内親王の不安どうり、事がはこんだ。翌773年1月には山部親王が立太子し、10月、井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の邸に幽閉され、同6年4月、幽閉先で他戸親王と共に薨じた。一説によれば殺害といわれている。これによって聖武天皇の皇統は完全に絶えた。
早良親王は白壁王の時代、将来展望がないまま東大寺に入って修行をしたが、光仁天皇即位の際、還俗し桓武天皇即位とともに皇太子となった。だが、東大寺の開山である良弁が死の間際に当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。本来光仁天皇は天皇位はおろか、明日をも知れない不安定な立場にあり、次男の早良王を東大寺に僧侶として一生を送らせるはずだった。しかし、思いがけず皇位がころがりこみ、自分の高齢を思い、東大寺の後ろ盾を頼りにした処置であり親心であった。
桓武天皇は即位するや、早速長岡京遷都を計画した。天皇は天武天皇系の平城京を極端に嫌い、光仁天皇から始まる新王朝にふさわしい帝都を望んだ。天武天皇と天智天皇とは兄弟ではないというのは、この頃から公知の事実だったのであろう。
「続日本紀」で桓武天皇とその側近であった藤原種継のやり取りが残っており、「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」という桓武天皇に対し、種継は「山背国長岡」を奏上した。長岡は桂川、加茂川、宇治川、木津川が合流し淀川を経て大阪湾に注ぐ、水上交通の要所であったことから交通の便をかわれた。また秦氏の所領であったことも、藤原種継につながる縁戚関係から選ばれたとおもわれる。784年早速藤原種継を造宮長官に任じ翌年新春、長岡京で祝賀をおこなっている。
それに先立って、遷都の話がでるや、東大寺、西大寺等、南都の大寺院は反対に動き、早良親王に接近し、遷都阻止に動いた形跡がある。785年、種継事件がおこる。遷都後間もない785年、種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日亡くなった。桓武天皇が大和国に出かけた留守の間の事件だった。桓武天皇は激怒し犯人探索を命じ、暗殺犯として大伴竹良らがまず逮捕され、取調べの末、大伴継人・佐伯高成ら十数名が捕縛されて首を斬られた。事件直前の旧暦8月28日に既に死亡していた大伴家持は首謀者として官籍から除名された。事件に連座して配流となった者も五百枝王・藤原雄依・紀白麻呂・大伴永主など複数にのぼった。その後、事件は桓武天皇の皇太子であった早良親王にまで及び、無実を訴えるため絶食して淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死した。もともと種継と早良親王は不仲であったとされているが、早良が実際に事件にかかわっていたのかどうかは真偽が定かでない。しかし家持は生前春宮大夫であり、高成や他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人が複数いたことは事実である。この前後の出来事を年代風にしるすと
781 桓武天皇即位
782 氷川川継、乱をおこす(天武、新田部系塩焼王の子)
784 長岡京着工
785 造宮長官藤原種継暗殺
皇太子早良親王廃され流刑地の途上憤死
789 蝦夷との戦いに大敗
平安新京着工開始
790 天然痘流行
792 辺境をのぞき正規軍を廃し健児をおく
日照りによる飢饉、疫病の大流行や、皇后や皇太子の発病
原因を探るために占ったところ、早良親王の怨霊であることがわかり、御霊を鎮める儀式を行う
都の中を流れる川が氾濫し、大きな被害となる
794 平安京遷都
このようなことが連続して起こり、桓武天皇は平安京造営に着手することになる。長岡京も含め、平安遷都は理由が二つといわれていた。天武天皇系との断絶を機に人心一新をはかること。南都仏教から距離をおくこと。そして長岡京からの移転は、新京での忌まわしい事件が連続したことである。たしかに洪水対策はこの時代、治水技術が幼稚で、事前調査不足があったようである。水害はさけられなかった。しかし真の理由は別のところにあった。梅原猛氏や井沢元彦氏の提唱する、怨霊説である。上にあげた理由は納得できるものであるが、時の権力者の心を動かした動機となるものは心の問題であるという。怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。
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五条市御霊神社
安殿(あで)親王の立太子が完了し一段落してのもつかのま、桓武天皇の身辺に不吉な事件がつずく。早良親王が死んで3年後、夫人の藤原旅子が死に、実母高野新笠、皇后藤原乙牟漏も相次いで死んだ。蝦夷には大敗し、早良親王を抹殺してまでしてつけた安殿親王は病弱であった。陰陽師の占いでは怨霊による祟りであるとの結果であった。怨霊とか祟りというものは、心理的なもので、歴史にはなじまないとされていたが、上の二人は直接的な動機に怨霊をとりあげた。実際、桓武天皇は平安遷都以降、あらゆる手段を使い早良親王の怨霊しずめをおこなっている。五条には御霊神社をつくり井上内親王、他戸親王、早良親王を合祀している。京都に上下御霊神社があり「八所御霊」を合祀している。実際桓武天皇がこれらの人々の祟りを恐れ、神社仏閣に怨霊鎮めに躍起になったことを思うと、その死の真因は桓武天皇側にあると見るのが必然であろう。
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