新薬師寺の現地説明会

新薬師寺の現地説明会

 奈良版の新聞に大きく報じられた。新薬師寺の金堂が発掘されたのだ。早速現地説明会があるというので聞きに行った。場所は新薬師寺の150メートル西側で現在奈良教育大学の東端である。奈良教育大学は考古学に熱心で学者も多い。国立大学だから保存にも力を注ぐと思われる。
 新薬師寺は747年天平19年、聖武天皇の病気平癒を祈って光明皇后が建立されたと伝えられている。当時東大寺と比肩できる、七堂伽藍と東西弐基の塔があり、正倉院に残る絵地図「東大寺山堺四至図(さんがいししず)」(756年)にも、金堂にあたる「新薬師寺堂」が大仏殿より横長で描かれており、これが裏づけられた形だ。しかし、現在は本堂(東西22.7メートル、南北14.9メートル)が残るだけ。他の建物は780(宝亀11)年の落雷や962(応和2)年の台風で失われたとされ、現在の薬師如来は平安時代になって再建された。同時に近くの岩淵寺より十二神像を移し七堂伽藍の内災害から免れた食堂を本堂に改修し、現在の姿になったようだ。 
 鎌倉時代に入って明恵上人が南門 東門 鐘楼 地蔵堂を新に建立し不明だった寺域を現在の区画に確定した。これによって金堂は現在の寺域からはずれたのである。

90043.jpg

         金堂の発掘現場

現地説明会は2008/10/15におこなわれた。駐車場が結構遠くてさらに教育大学に入って距離があり、一番奥までゆくと多少つかれた。現場はいつもの通りあちこちにビニールをひいてあり、発掘跡の柱穴が数十個みられた。柱間(はしらま)が東西11間(54メートル)、南北6間(27メートル)と推定されており、東大寺の大仏殿と同じ「壇上積(だんじょうづみ)基壇」の一部が見つかった。ここが金堂だったとすれば講堂や二つの塔蹟の位置など専門家は想定しているだろう。私は以前新薬師寺に来たとき、薬師如来と十二神将はどのようにして災害をまぬがれ、現在の位置にきたのか不思議だった。燃え盛る火災の中を僧達が必死に運び出す光景を勝手に想像していた。現実は上に書いたとおりである。

90042.jpg

        新薬師寺の本堂

 私は最近再度新薬師寺を訪ずれた。いつも休日を避けてくるので人もまばらで、いつもの静寂さがよい。南門から入って国宝に指定されている本堂の姿を写真におさめた。本堂の西の入口から中にはいる。暗くて目がなれるまで、あたりが見えない。しばらくすると目がなれて、2~3人の見学者がいるのが確認できた。薬師如来と十二神将がいつものとおり美しい姿で立っていた。薬師如来は文字通り薬、医者の神で薬師寺の天武天皇の病気平癒を願った持統天皇と同じ思いで光明皇后は祈ったのであろう。十二神将は自分の役目として薬師如来の十二の方向を分担して、守護している。一つ一つが素晴らしい躍動美で各々国宝に指定されている。新春には初詣の善男善女が各々自分の干支の神様にお祈りするという。ただ私の干支神像である辰の神像 波夷羅(ハイラ)のみ盗難にあったとかで昭和のレプリカがおかれ、国宝から除外されている。中の売店におじさんが手持ち無沙汰でいたので少し話をした。おおよそ記述した内容であった。

目次に戻る

HPに戻る

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です