奈良豆比古神社の翁舞
奈良坂(旧奈良街道)を北上すると奈良豆比古神社がある。この神社は志貴皇子がその息子春日王のために建立したのが始まりといわれている。志貴皇子は(志貴皇子の憂鬱)で紹介したように天智天皇の第七皇子であるが、世は天武天皇の時代になり、不遇をかこっていたが、称徳天皇で皇統が途絶え、実子白壁王が第49代光仁天皇となる。春日王は第二子となるが生まれつき病弱で、病気療養のために別荘をたてたのが始まりといわれている。春日大社との関係が深く、古くは奈良坂春日社と呼んでいたようで、石燈籠にも春日社と刻まれているものもあり境内の樹齢千三百年の樟の巨木は県の天然記念物に指定されてる。この神社は二十年毎に御造替が途切れることなく行われているという事で常に新しいお姿をあらわしている。本殿は一間社春日造が三殿相並んでいて、中央が産土の神・平城津彦神(奈良豆比古神)、右側に志貴皇子、左側に春日王(志貴皇子の第二皇子で矢田原太子と号し、土俗矢幡神という)。
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奈良豆比古神社本殿
この奈良豆比古神社には芸能の神様でもある。春日王の子孫は春原氏を名乗る。毎年十月八日宵宮に行なわれる翁舞は県の無形文化財に指定され『歌舞音曲の神』として芸人達の崇敬を集めている様である。翁舞は歴史がふるく猿楽の源流とも言われている。
南北朝時代には多くの猿楽の座(劇団)があり、中でも大和を本拠地とし、物まねや会話の面白さが持ち味で、鬼の演技を得意とする大和猿楽と、近江を本拠とし、優美な幽玄の芸風が売りの近江猿楽の二大勢力があった。とはいえ北条高時の田楽好きはとみに有名で、当初は歌舞や曲芸主体の田楽のほうがポピュラーであった。このような田楽全盛期に大和猿楽・結城座(結崎の面塚と観阿弥の能**参照)の太夫として座を統括していた観阿弥が現れ当時の「小歌がかり」の猿楽能の謡に、当時大流行していた「曲舞(くせまい)」のリズムを取り入れるという音曲革命を行なった。彼の作曲した「白鬚の曲舞」が大ヒットし、この頃から猿楽能は田楽と肩をならべるほどになった。醍醐寺での興行を機に、観阿弥は京都への進出を果たし京極の佐々木道誉や足利義満の側近海老名の南阿弥ら有力者に引き立てられ、文化人との交流を通じて、上流階級に好まれる作能を要求された。観阿弥は永和元年(1375)当時12歳の世阿弥を伴い京都今熊野で猿楽能を興行したが、これを見学した将軍足利義満は、以後、観世親子に絶大な支援を行なうようになる。世阿弥は30代後半には観世座の太夫を継ぎ、ますます将軍家に引き立てられた。
この世阿弥に、なかなか子に恵まれず、弟四郎の子元重(音阿弥)を養子にしたが、その数年後元雅・元能と相次いで実子が誕生する。この頃から世阿弥は能を「次世代へ引継いでいかなければならないもの」と意識するようになり応永7年に第一次の完成をみた「風姿花伝」を皮切りに、実に21種類の伝書をのこしている。彼が書いた伝書は、役者としての実体験に裏打ちされた実践的かつ具体的な内容が多く、現代人が読んでも納得できる普遍性を持つ。
脚本家としても卓越した才能を持っていた世阿弥は将軍義持とその周囲の人々のお眼鏡にかなう能を作るために、大和猿楽がお家芸としていた物まね中心の能から方向転換し、美しさ主体の歌舞能を志向するようになる。キーワードは「幽玄」で「平家物語」や「伊勢物語」など当時の知識人の馴染みの深い古典に題材を求め、旅人の夢の中に超現実的存在の主人公が現れて、過去を回想して舞をまったり、自身の最期の有様を再現して見せたりする「夢幻能」の形式を完成させた。
世阿弥の息子元雅は、能に「心理ドラマ」とでもいうべき新境地を打ちたて、娘婿の金春禅竹は世阿弥の確立した夢幻能の世界をさらに深めてゆく一方、人間ドラマの中に歌舞能の世界を展開させる新風の作品を生み出した。
この世阿弥の「風姿花伝」の中に猿楽の起源について言及している。それは風姿花伝第四 神儀の巻で
①「申楽、神代の始まりといつぱ、天照大神、天の岩戸に籠り給いし時、天下常闇になりしに、八百万の神達、天香具山に集り、大神の御心をとらんとて、神楽を奏し、細男(さいなう)を始め給ふ。中にも、天の鈿女(うずめ)の尊、進みいで給ひて、榊の枝に幣を付けて、声を上げ、火処焼き、踏み轟かし、神憑りすと、歌ひ舞ひ奏で給ふ。その御声ひそかに聞えければ、大神、岩戸を少し開き給ふ。国土また明白たり。神達の御面白かりけり。その時の御遊び、申楽の始めと、云々。くはしくは口伝にあるべし」と古事記おなじみの物語がでてくる。
②さらに天竺での猿楽の始まりと称して、釈迦が祇園精舎を建てたときの祝いの席で宴席しているときに、邪魔するものがあり、舎利弗の知恵で六十六番の物まねをして追い払ういきさつを記している。
③さらに日本の猿楽の起源として秦河勝と上宮太子の物語を記している。
④平安朝の猿楽の起源として村上天皇と秦氏安の項が記されている。「……その後、六十六番までは一日に勤めがたしとて、その中を選びて、稲経(いなつみ)の翁、代経(よなつみ)の翁、父の助(じょう)、これ三つを定む。今の世の式三番、これなり。すなはち、法・報・応の三身の如来をかたどり奉る所なり。式三番の口伝、別紙にあるべし。」
⑤当代の猿楽の起源として興福寺薪猿楽に言及している。
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翁の舞い
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翁の面
ここにいう式三番の猿楽の古式が奈良豆比古神社の翁舞である。世阿弥時代の能楽と違い、「翁舞」は確かに洗練されているとは言い難いものがあるが、古式に則り幽玄さを感じさせる。奈良豆比古神社は、延喜式神名帳にその名が見られる由緒ある古社である。毎年10月8日、町内の翁講・翁舞保存会の人々によりに「翁舞」が神社に奉納されるが、詞は口伝、舞や演じ方も直伝の形で伝承されている。この舞は、能の原型となった申楽(猿楽)にある式三番の形態を有していて、国の重要無形民俗文化財に指定されている貴重なものである。
観世左近の勤める「翁」は現在、もっとも一般的に上演される式三番は以下のような形態をとっている。
1.序段
(1)座着き:笛の前奏によって役者が舞台に登場する。
(2)総序の呪歌:一座の大夫が、式三番全体に対する祝言の呪歌を謡う。
2.翁の段
(1)千歳之舞:翁の露払役として若者が舞う。
(2).翁の呪歌:翁が祝言の呪歌を謡う。
(3).翁之舞:翁が祝言の舞を舞う。
3.三番叟の段
(1).揉之段:露払役の舞を三番叟自身が舞う。
(2).三番叟の呪歌:三番叟が千歳との問答形式で祝言の呪歌を謡う。
(3).鈴之舞:三番叟が祝言の舞を舞う。
また、奈良豆比古神社には古い能・狂言面が二十面ほど伝承されていて、それらの多くは室町時代製作とされているが、中でも、能面の「ベシミ」は室町初期の応永二十年(1413)の銘を持つ古面である。これらの面は、平素は奈良国立博物館に保管されているが、「翁舞」の日に限り、神社境内にある資料館にて拝観することができることになっている。
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