大伴家持とその時代

大伴家持とその時代

宮廷  天皇 権力者44
元正 げんしょう 715~724  718 大伴家持生まれる
聖武 しょうむ 724~749   727 旅人大宰府に赴任
                 728 山上憶良と親交
                 729 長屋王の変
                 730 大宰府で梅花宴、旅人家持帰郷 万葉巻5
                 731 旅人死68歳
                 732 坂上大嬢・笠女郎
                 736 秋歌4首 万葉巻8
                 738 独り天漢を仰ぎ述懐の歌 万葉巻17
                 739 亡妾悲傷歌 万葉巻3
                 740 東北行幸に従駕、歌を詠む 万葉巻6
                 742 橘諸兄宅で奈良麻呂主催の宴 万葉巻8
                 743 恭仁京賛歌 万葉巻6
                 744 安積親王挽歌 万葉巻3
                 745 従5位下
                 746 7/7越中に赴任、弟書持死哀傷歌 万葉巻17
孝謙 こうけん 749~758   752 8/5帰京、少納言に任ず
                 754 兵部小輔を拝命山陰道巡察使に任命
                 757 兵部大輔に昇進
                 758 因幡守に左遷
淳仁 じゅんにん 758~764 762 信部大輔に任ず、因幡より帰京
                 763 恵美押勝暗殺計画発覚
称徳しょうとく764~770   764 薩摩守に左遷
  孝謙重祚         767 太宰小弐に任ず
                 770 民部少輔任ず、大宰府より帰京
                    左中弁兼中務大輔、正五位に昇叙
光仁 こうにん 770~781   771 従四位下に昇叙
                 772 左中弁兼式部員外大輔に任ず
                 774 相模守、左京太夫兼上総守
                 775 衛門督
                 776 伊勢守
                 777 従四位上に昇叙
                 778 正四位下に昇叙
                 780 参議、右大弁
桓武 かんむ 781~806   781 正四位上に昇叙、春宮太夫
                   従三位公卿に列する
                 783 中納言に就任
                 785 陸奥国にて死去
                    この時中納言従三位春宮太夫兼時節征東将軍
                 806 従三位に復位、永主ら隠岐より帰京

 大伴家持が生まれたのは養老二年(718)で平城京である。718年といえば平城京遷都が710年で、いまだ都が整わない8年後のことである。そして亡くなったのは785年、その前年(784)に長岡京遷都があり、まさに奈良平城京とともに生まれ死んだ人生だった。3歳のとき、父大伴旅人が征隼人時節大将軍として単身九州に赴任し、10才の時太宰師として大宰府に就任した。 その時を機に家持と2歳下の弟の書持を妻(大伴郎女)と共に帯同した。旅人としては大伴家の伝統と名誉を子供たちに伝える必要を感じていたのである。しかし、到着一ヶ月後に大伴郎女は病気が急に悪くなり、まもなく死んだ。家持にとって近親者の死は遭遇した最初のことであり、旅人は深く悲しんだ。平素から酒好きの父はさらに深酒がかさなった。
  験(しるし)なき ものを思わずば 一杯(ひとつき)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし
  生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな
生きている間は楽しくありたいと旅人はいうが、悲しそうな父の姿はいつまでも、家持の記憶に残った。
 
 大伴家は名門の家柄である。720年には舎人親王らによる「日本書紀」が著された。家持が生まれてから二年後である。そこには、天孫降臨の際、大伴氏の遠祖天忍日命は武装して先導されたと記されている。神武天皇が東征された時も遠祖日臣命(道臣命)が大来目を率いて大和への道を先導したとある。雄略天皇の大連であった大伴室屋は靫負(ゆげい)三千人を領して宮廷の守衛に当たったといい、以降大伴氏は久米部、佐伯部、靫負などを率いる指導者の地位についた。 室屋の孫、大伴金村は朝鮮半島との外交交渉にも活躍した。継体天皇の折、任那四県に対する支配を容認する決定を下している。のち、欽明天皇の時代その措置を批判されて失脚し、政権の主導権は蘇我氏に移った。
大化元年、蘇我氏が倒されて新政府ができると、金村の孫・長徳が右大臣になり政界に復した。さらに、先の壬申の乱の折には、馬来田、吹負が大海人皇子に味方し近江朝廷方の軍と戦って大きな功績をたてた。
 旅人は子供たちにこれらを聞かせ、家持には家の再興を、書持には学者の道に行くことを願った。しかし大伴郎女の死後旅人の不便もさることながら、もっとも困ったのは二人の子供の教育問題だった。あれこれ悩んだ結果、旅人の異母妹の坂上郎女を大宰府に呼び寄せることとした。坂上郎女は前夫が何人かおり子供が二人いた。大伴坂上大嬢と大伴坂上二嬢である。このうち大伴坂上大嬢が後、家持の妻となるが、当初は母と二人の女性が加わって、はなやいだ生活を送った。坂上郎女も名門大伴家の後継者を大切に育てた。さらに彼女は当代随一の女流歌人で、家持には大いに影響を与えた。もう一人、旅人の友人で九州に来ていた筑前守、山上憶良を家持に引き合わせた。後世「山柿の門」といわれ家持に大きな影響を与えた歌人に山上憶良と柿本人麻呂がいた。「山」は山辺赤人の説もあるが、おそらく山上憶良であったと思われる。


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朱雀門

 731年、大納言に昇進し奈良に帰ってまもなく、旅人は78歳で死んだ。奈良は佐保の地に大伴家の住宅があった。父に託されて武門の道をゆくべく期待され、本人もそのつもりで武芸に励んだが、和歌の道にはとかく関心があった。坂上郎女をしたって多くの女性が家に訪れては歌会を開いた。その中で万葉集に収められている、女性からの歌が数多く残されている。
笠女郎、山口女王、大神女郎、中臣女郎、河内百枝娘子、粟田女娘子、紀女郎、阿部女郎、平群氏女郎などで家持宛に来た歌に返歌をした者、無視された者、数多くあるのである。特に笠女郎は万葉の代表的女流歌人であるが彼女から24首の歌を贈られているが、わずか2首しか返事を出していない。かなり華やかな女性関係であったようだ。
   
 22才のころ家持には二つの悲劇が起こった。一つは佐伯末麻呂との親交の中、娘の阿耶女と出会い、恋におちた。やがて子をなし、佐紀郎女となずけた。この阿耶女が死んだ。悲嘆した家持は「亡妾悲傷歌」を万葉集に残した。もうひとつは安積皇子の死である。安積皇子の死は少し複雑である。
 当時聖武天皇には県犬養広刀自の間に安積皇子がおり、おりからの実力者橘諸兄がいた。諸兄には息子の橘奈良麻呂がおり、家持とは親交があったが、安積皇子の天皇即位を画策していた。一方もう一人藤原不比等の娘、光明子がおり藤原家の期待をになっていた。光明子自身も藤原氏の期待に答え、藤原氏よりに行動した。当時、藤原四兄弟が相次いで天然痘にたおれ、聖徳太子の祟りと恐れられ、法隆寺の再興を計画した頃である。藤原氏の実力者は藤原仲麻呂で、聖武の皇太子に光明子の娘安倍内親王をおした。ここに両派の葛藤があった。当初、長屋王の息子黄文王が皇太子候補であったが、密告により捕らえられ、拷問死している。聖武天皇が難波宮に行幸し、安積皇子も随行した。難波京と平城京の最短、暗峠の近く、桜井の頓宮で急病にかかり急ぎ恭仁京に還ったが、二日後に急死した。帰還の理由は脚の病ということであった。このことが後世大問題となって「橘奈良麻呂の乱」となる。

746年家持は越中守に任じられ富山県高岡に赴任した。これは橘諸兄から伝達された。当時全国約60の「国」があり大、上、中、下に4区分されており、越中は上国とされていた。当時は地方分権で国司は大きな権限が与えられており、中央政府にとって当時まだ東国は未開地で、競って地方に勢力を拡大していた。従って家持の越中国赴任は大伴家の勢力拡張と出世の糸口と考えられはりきっていた。越中時代は「富山県高岡市の二上山」を読んでいただきたい。ただし、弟の書持がこの年没した。
家持は弟の死を悲しみ、その人となりを「花草花樹を愛でて、多く寝院の庭に植う」と述懐した(同17-3957)。

橘諸兄、奈良麻呂父子との親交は万葉集の編纂につながっていった。橘諸兄は『万葉集』の撰者の一人といわれている。これは、『栄華物語』月の宴の巻に、「むかし高野の女帝の御代、天平勝宝5年には左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等集りて万葉集をえらび給」とあり、これが元暦校本の裏書に、またある種の古写本の奥書にもはいったことが、一定の信憑性をもつものである。のちに、仙覚は橘、大伴家持の2人共撰説を唱えるにいたった。

 家持は783年中納言に就任後、785年陸奥国にて死去するまで尚、30年を生きた。年表に見るごとく全国各地に赴任をした。この間藤原氏の全盛時代でもあり、家持は体制側につくことはなかった。これが、家持の出世に大きく影響した。この間出世と左遷をくりかえし、従三位公卿どまりとなった。785年家持が死んでなお、事件にまきこまれる。この時桓武天皇で、天智天皇、志貴皇子、白壁王(光仁天皇)と代を次ぎ桓武にいたる。おりから藤原種継の勢力の伸張期であり、天皇の寵愛を一身に受け、表向きはすべて種継に任した。桓武天皇は代々天武系の天皇の都である平城京を嫌い、遷都を考えていた。種継は天皇の意を受け、長岡京遷都を画策した。長岡京は交通の要地であることと、種継の母が秦氏の出で、その根拠地であることが長岡遷都の理由である。桓武天皇には弟の早良親王がおり、立太子していたが、早良親王には何の相談もしていなかった。そのため桓武と早良親王との中は円満ではなく、種継とも疎遠にしていた。やがて種継が暗殺された。がこれが大事件となった。激怒した桓武天皇はすぐ犯人捜査を命じ、実行犯の二人の兵士を尋問の上、即刻死刑に処した。そして事件の首謀者として大伴継人(旅人の弟田主の孫)、大伴竹良(大伴一族)、大伴家持があげられた。家持は死して一月の後のことあった。

 藤原種継暗殺に早良親王が関与していたかどうかは不明である。だが、東大寺の開山である良弁が死の間際に当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の1つには東大寺や大安寺などの南都寺院の影響力排除があったために、南都寺院とつながりが深い早良親王が遷都の阻止を目的として種継暗殺を企てたという疑いをかけられたとする見方もある。その後、桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)の発病や桓武天皇妃藤原乙牟漏の病死などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。延暦19年(800年)、崇道天皇と追称され、大和国に移葬された。
家持の死について「続日本紀」には「中納言、従三位の大伴家持が死んだ」と記されている。律令制度では人の死の表記として上から順に崩、薨、卒、死の四種類である。家持は従三位だったから「中納言、従三位の大伴家持が薨じた」とあるべきだが、身分の除名処分をうけて死んだと表記されているとおもわれる。ただし806年死から20年後に名誉を回復し元の従三位に復帰した。

大伴氏は伝統ある武門の出である。新興の藤原氏とは家格が違う。しかし、権勢は藤原氏にあった。大伴氏が藤原氏の側につくのを潔しとしなかったのであろう。彼は父の遺言もあり、大伴の家名の維持につとめ必死であったが、常に、大友氏凋落の危機を感じていた。彼の歌は常にどこかもの悲しく、根底に哀感をひめている。栄光の過去があるからこそ、現実の危機を常に感じている。

 忍坂(おさか)の 大室屋に 人多(さわ)に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも 
  みつみつし 来目の子等が 頭椎(くぶつつ)い 石椎い持ち 撃ちてし止まん
 
 海行かば 水漬(みず)く屍 山行かば 草蒸す屍 大君の 辺にこそ死なめ のどには死なじ

これは久米歌である。神武天皇に付き従い大和平定物語に組こまれた宮廷歌謡である。代々大伴氏が歌い継いだ栄光の歌である。

 
 さて応天門の変は、平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件である。応天門は平安京の朱雀門の内側、朝堂殿の南側にあり大伴氏が建立しこの門を守護するのが任務となる栄光の門である。この応天門が放火され、大納言伴善男は左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣藤原良房の進言で無罪となった。その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。

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